ベトナムの教育
発展の歴史、挑戦、方策
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中等教育での職業訓練の廃止 06/05/2017


改革の始めには様々な困難が立ちはだかっていましたが、上記のような方策の中には、実行困難で効果があったとは言えないもの、もしくは歪みが生じ、修正しなくてはならないもありました。1996年の終わり頃、ベトナムの指導者達は、工業化、近代化のための教育の発展の戦略的方針であり、そして20世紀最後の数年の教育部門の職務であった、教育改革の10年の反省を指揮しました。初期の改革の方策のいくつかは以下のように調整されました。普通学校、前期中等レベルの専門学校での選択授業の廃止、高等教育で2つの段階に分けていた課程は、融通の利かない多岐にわたる規則と2つの段階間の編入試験を廃止すること、学校カリキュラム、特に後期中等教育プログラムに編成されるカリキュラムと教科書改訂の一層充分な準備、そして中等教育での職業訓練の廃止、などです。

この10年で、1996年の2千万人から2005年の2千300万人という生徒数が増加し、それに伴って教育制度の規模は大きくなり続けています。適正な年齢の初等教育の一般化と前期中等教育の一般化活動は非常に良好な成果を収めています。2004年度には、初等教育対象年齢の児童の通学率は98.0パーセントとなり、小学校(卒業)から前期中等学校(6年生)への移行率は98.5パーセントとなりました。前期中等学校の通学率は84.0パーセント、前期中等学校(卒業)から後期中等学校(10年生)への移行率は77.1パーセントとなりました。学校のネットワークは広がり続けており、基本的には小・中学校での子供達の学習ニーズに応えることができました。2002年度に新しい学校カリキュラムと教科書が導入され、教育の質の改善のための必要条件が整えば、2008年度までに一般化されるはずです。そしてこの5年で5千300万人の人々が職業訓練施設での訓練を終えました。これは長期課程履修者の3分の2にあたります。専門中等教育を受けている人々の増加率は平均して、1年あたり14.7パーセントでした。高等教育では、1998年から2004年の間の平均増加率が1年あたり6.4パーセントとなり、学生数が76万人から1千300万人に増えました。非公式の教育はベトナム中の教育中央ネットワークにより、強化されました。地域の学習センターが全国の半数以上のコミューンに設立されています。このような制度の大きな成長と共に、教育の機会の公平性の面でも大きな進歩を遂げました。民族間で教育を受ける機会に差がありましたが、その差も少なくなりました。前・後期中等学校に通う少数民族の生徒数の増加率は、それぞれ1年あたり7.3パーセント、26.1パーセントです。

しかし、このような業績を残すと共に、ベトナムの教育制度には、特に職業訓練教育と高等教育の分野の教育の質や効率の低さなどの弱点や食い違いがいまだにあります。社会は消極的な例や成長が遅いことなどに関心を持ちます。その結果、教育は国の立法議会会議と同様に、メディアや会議、研修会や講習会などで取り上げられ、物議をかもす話題となっています。今日の科学や工学、社会経済分野でのめざましい発展、そして国際化や学問を基礎に置いた経済発展の必要性を考え合わせると、ベトナムの指導者もベトナムの人々も現状に満足はしておらず、教育部門の更なる改革を望んでいます。

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改革の10年後には教育部門は明確に進展 06/03/2017


堅実な指導のお陰で、この改革の10年後には教育部門は明確に進展し、顕著な成果をあげました。1993年度には、就学前教育、一般教育、職業訓練教育から高等教育までの全てのレベルにおいて教育と訓練システムの規模は広げられ、改革期以前の成功年にまさる成功を収めています。

初等教育レベルだけで言うと、1989年から1990年の退学者の割合は12.7パーセントから6.58パーセントに減り、同年の留年の割合は10.6パーセントから6.18パーセントに減りました。(20世紀の)1990年代半ばには、小学生、前期中学生、後期中学生の総人数はそれぞれ、1千万人、3千7百万人、86万人を超えました。5年後、地方は1千7百万人を超える非就学児童を集め、学校に通わせました。このことで20万人の子供が初等教育の一般化の必要性を満たし、何十万という子供達が学校に戻りました。そして1千200万人以上の成人が反文盲クラスに参加する機会を与えられました。そのおかげで、50万人近くの人々が小学3年生程度の識字力をつけることができました。

職業訓練教育では、以下のような短期訓練コースが1993年の9万5千コースから1994年には12万8千700コースにまで増加しました。職業訓練中等学校は50の学校と経済社会で就職することのできた卒業生によって構成されていました。郵便・電気通信、軽工業、運送、地雷工学、科学、そして文化・芸術の6つの専門中等学校が、熟練した技術者を養成する試験プログラムを採用しました。ここでは、訓練課程の構成が最大の難関でした。教師が不足していたこと、1人の教師が複数の科目を教えなければならなかったことなどの理由です。また、様々な科目の研究施設が不足しており、訓練の質も上がりませんでした。MESの訓練は、15の教育地域・分野で行われ、MESが基礎を置いた5つの教授、学習資料が5つの分野でつくられ、幅広く応用するために広められました。長期プログラムを行っていた建築関連、郵便・電気通信の職業訓練学校もまた、MESを基礎とした訓練プログラムをスタートさせました。

高等教育では、これらの職業訓練施設が落ち着き、プロとしての活動をすることで収入を増やし、講義の規模を大きくしました。高等教育施設のネットワークでは、ハノイ、ホーチミン市、タイグエン、フエ、そしてダナンに5つの主要な総合大学が設立されました。公立ではない大学もまた増えました。指導者、教授、講師達は学術知識や国際的経験をもつ同僚と知識を交換する機会を持ち、国際的繋がりも広がりました。

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職業教育に関する改革 06/01/2017


職業教育に関する改革の方針は、国有で集産主義セクターに寄っていた人材教育を市場経済のニーズに寄せた教育に変換することです。この改革は、経済の過渡期に必要とする労働組織の需要を満たすために、労働市場のニーズによって教育の学科や分野の構成を調整することを目的としていました。また、人材の質の向上に合わせて、教育の質も改善し、国内、国際市場での経済における競争力をつけることも目的とされています。

職業訓練教育の改革を実行するために、生徒に授業料の分担金の協力を頼み、実習期間の費用をまかなうという方策もとられました。国の予算は、インフラ設備の充実や教師教育活動の費用をまかなうため、専門学校や職業訓練学校の維持することに使われていました。政府は準公立、私立、民立職業訓練施設の設立も許可します。技術指導活動は若者に職業技術を身に付けさせ、技術教育制度をつくるため、在学中の生徒向けに行われました。一般教育と職業訓練教育のハイブリッドである、職業訓練学校のモデルが採用されています。郵便および電気通信、軽工業、交通、地雷工学、科学、そして文化及び芸術分野での優秀な技術者のための試験的教育計画が打ち上げられ、中等教育資格に代えられました。職業訓練はいわゆるMESと呼ばれる職業技術モジュールをベースとして行われています。MESは職業技術システムを、仕事を行う上で必要となる技術に相当する様々な技術内容に分類しています。様々な職業に必要とされる技術が多くあるため、様々な職業訓練の分野で結び付きができました。

高等教育の改革方針は、公共の組織や集産主義社会で働くための教育をするのではなく、経済界の様々な構成要素となり、世間の多様な学びの必要性に応えるための教育をすることでした。国の予算に頼るのではなく、使用可能な財源が運用され、利用されました。国が定めた計画を遂行するのではなく、国以外の団体や組織が定めた目標も掲げられ、実行されました。厳正なプログラムの代わりに、多くの職業関連の変化が起こっていた市場経済で雇用を創出し、職を得る必要性に応えるために、柔軟で多様な教育プログラムが展開されました。

高等教育改革では組織や最低限どれだけの知識を必要とするかということを指揮し、高等教育が単に職業訓練であるという認識から脱するという方策もとられました。この改革の目的は教育の課程を幅広い分野で見直し、高等教育での学習を2つの段階に分けました。そして学年ベースのコースを単位ベースの訓練に替えたのです。また、高等教育施設に入学試験の準備をする権限を委ね、受験者が複数の施設で試験を受けられる許可を与えるための、手順の確認、評価、検査を改善することも目的の一つでした。そして、権力を分散し、教育省が行う専門的な活動を減らし、高等教育施設の権力を強めること、社会の経済発展の必要性に応えるため、独自の目標を設定し実行することを許可するために、管理の仕方を見直し、法や規則で国の管理機能を強化する目的もありました。この改革には、高等教育施設が学生の受け入れ人数を広げ、学習の課程を継続してふるい分けを行い、その正確な評価を出すことも必要とされました。また、教育や調査、応用の活動で研究施設、事業間の繋がりを奨励、促進しました。これは、高等教育機関のモデルを見直し、新しいタイプの高等教育施設(様々な人種のいる大学、放送大学、公立大学、準公立・私立・民立大学など)を設立して、「つぎはぎ」もしくは「ばらばら」であるという問題を克服するための組織的なネットワークの再構築を目的としています。

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改革の20年(1986-2005) 05/30/2017


1980年代初め頃のベトナム教育の最大の危機は、国が集産主義経済を取り除く一方で、経済的資源を供給することができなかったことでした。結果的に、他の部門と同様に教育も深刻な人材・資源の枯渇にぶち当たったのです。教師も生徒も学校を去り、教育制度の規模は縮小し、質も低下しました。大学や専門学校、職業訓練学校は正規の活動を維持するために必要な最低限の予算も十分ではありませんでした。卒業しても雇用先は見つからず、講師達は少ない収入を補うために、講師にふさわしくない仕事もしなければなりませんでした。官僚制度の中では、大学や専門学校、職業訓練学校には何の権限もなかったのです。

1986年、経済危機を脱するため国家の大改革を計画しました。ベトナムの指導者達が中央集中の制度から社会主義重視の市場体系に移行させたのです。この国家政策の大転換の結果、教育部門も改革が求められます。この教育改革の内容と範囲は多岐にわたりました。基本的な問題の一つは、過去の間違った見解や方策を見直し、景気の低迷を止めてシステムを安定、強化するため、新しい方策を強く提示し実行すること、そして発展の持続に必要な人材・資源が伴う状況にするということでした。この目標を達成するには、若者世代のための社会、家庭、学校の人材・資源の社会主義化、民主化、多様化そして流動化の点において変革が必要とされました。教育部門は国家の教育制度を維持し、向上、発展させることに努めました。そして、教育の質と効率をよりよいものにするのに重大な役割を担う、教師や教育監督者達の物質的、精神的生活を向上することを重視しました。

「一般教育に関する」改革の方針は、カリキュラムの目的と内容や教科書、教育に関する認識の修正を続けることです。また、それぞれの生徒や教師、その地方の特色に合わせたやり方で徐々に総合的な質にすること、一般教育と職業教育を関連付けること、国の責任をしっかりと確約し続けること、そして、教育の社会主義化を実行することです。社会主義化活動を実践する一方、公的な助成金への非現実的な期待を排除することは重要なことでした。

一般教育の改革で用いられた方策の中に以下のようなものがあります。政府はどの学年でも授業料の寄付を認めました(小学校は一般化のターゲットだったので除外されます)。授業料の寄付が認められたのは、私立幼稚園、準公立学校、民立教室・学校の全ての学年です。教育部門は教育活動を生徒の活動レベルによって分類しました。また前・後期中等学校での才能ある生徒の為に特別学校も設立しました。そして前・後期中等学校の通常教育と教員教育で優秀な生徒には、選択クラスも設けました(子どもの発達を損なう可能性があるため、専門学校と選択授業は、詰め込み教育を避けて、小学校には設けられませんでした)。

この改革では後期中等教育の能力別カリキュラムの試験的な作業が熱心に行われました。生徒の能力に応じて学習活動を分けることを認める、能力別カリキュラムの拡張が準備されました。また、一般教育と職業教育を結び付けることで、生徒達は仕事と職業スキルを手にすることができました。初等教育レベルでは、改革中のカリキュラムを徐々に完成させるとともに、少数民族の子どもたちや恵まれない子どもたちのための様々なプログラムも作り、より柔軟性のある授業を導入しています。それまでの反文盲運動の経験を活かし、政府は「反文盲国家委員会」を設立し、反文盲の責務を初等教育の一般化に付け加えたのです。

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改革前の歳月(1975-1985) 05/29/2017


1975年4月、ベトナムの独立を護り、国土の再統一を目指すベトナム民族解放戦争は、完全な勝利を収めました。勝利の後、南部地方の教育部門のために、政府は2つの事業に重点を置きました。(i)古い教育制度の影響を消し去ること。そして、(ii)12歳から50歳の国民を対象にした反文盲運動の実施です。

1つ目の事業に関して、教育省は迅速に新しい12年制のカリキュラムを作り、法令を出しました。そして南部で用いられていた教科書に代わり、2000万部の教科書を作り、印刷しました。古い体制の下で働いていた教師の多くは再雇用されました。同時に私立学校から宗教色を取り除き、徐々に国の指揮下に置き、国立化を行っていきました。

政府が計画した2つ目の事業は、最優先事項として政府が文盲を迅速になくし、補習教育を強化することでした。反文盲運動は愛国心の象徴とされ、教えること、学ぶこと、また人々の学びを助けることが何百万もの人々の心をとらえました。1978年の初め頃には、南部の全都市と省で文盲は消滅しました。読み書きができないであろうとみなされた140万5870人の人々のうち、132万3670人が文盲から脱するための支援を受けました。これは計画の94.14パーセントの達成率です。

これらの早急な事業を実施する間、政府は国家の再構築計画と国の発展のためにふさわしい、国の統一教育制度を設立するための教育改革の準備をしました。

3度目の教育改革は1981年度に始められました。この改革の重要な特長は以下の通りです。

a)教育目標が、多方面にわたる人間の成長の最初の基盤を作ることを目的とする、幼少期から成人に至るまでの若い世代の保護と教育 と定義されたことです。 また、(生産的関係、科学および技術、文化とイデオロギーの)3つの改革の実施を促進するための教育一般化すること、そして労働部門のニーズと並び、働き手を増やし、訓練と養育を行うことも目的とされました。

b) 教育の内容に関しては、「総合的な教育の質の改善と、人民の社会主義の構築の理想を理解し、担うことができる新しいタイプの働き手をつくること」に焦点が置かれた点です。

c)教育原理には、実践、教育、労働を伴う学習が含まれ、学校と社会の繋がりが強化されたこと。

d)教育制度の構造は改正され、南部の12年制の制度と、北部の10年制の制度は12年制の一般教育制度に替えられたこと。小学校と前期中等学校を一本化し、後期中等学校への準備期間としました。そして専門大学が多くつくられ、発展を遂げました。

1996年に完了した3度目の教育改革で最も重要だったのが、全ての学校の教科書を一新したことです。これにより、全国の一般教育に一貫性がもたらされました。教育内容だけで言えば、改革後のカリキュラムはより近代的で、かつその結果として教育の質の改善の前段階を作り上げる要素を持たせていました。

しかし、改革実行の間、多くの困難に遭い、いくつか限界も露呈されました。最も大きな危機は、目標や方策が非現実的で実行不可能だったことでした。制度の大拡張化、全生徒への助成金、教育の一般化などです。一方で、南北境界線での戦いと景気後退のため、適当な人材・資源を確保することができませんでした。3度目の教育改革で提案された実現不可能な解決策の代表例は、中央政府の計画が反映されたもので、小学校と前期中等教育学校の一本化です。教師や教育管理者の力量不足や施設が不十分であるなど、現状はかんばしくなく、これらの統一校はその後再び分離されたのです。一般的な認識として、莫大な助成金と教育福祉の援助が受けられることを全国民が期待しました。しかし、そのような認識が影響し、教育の発展は遅れをとりました。国の予算の教育費の割合が他の部門と比較して少なかったからです。それでも人々は自分の子どもの教育は、職業訓練や高等教育であっても助成金が出されるべきと考えました。助成金への期待は、ベトナムのように貧しく、発展途上にあり、特に戦後で経済危機であったという背景では、全くそぐわなかったのです。

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一時的分離の歳月(1955-1975) その2 05/28/2017


一般教育の改革と共に、政府は「無学を無くすための中央運営委員会」を創設しました。委員会は国民の教育を国の計画に不可欠なものとして、文盲をなくすための3年計画を打ち出しました(1956-1958)。その結果、216万1,362人の人々が文盲から脱することができました。またデルタ地帯のほとんどの住民が読み書きできるようになり、12歳から50歳の人々の識字率は93.4パーセントにまで上昇したのです。しかし、このように反文盲運動が成し得たことも長くは続きませんでした。「やるのは一度きり」という認識が常識であったなど、様々な理由の為です。

反文盲運動が成し遂げたものに基づき、国民の教育制度は働く世代の大人の教育レベルを改善することに重点を置くようになりました。これは一般教育と並んで、「補習」教育制度と呼ばれました。補習教育の発展とともに、政府は工業、農業教育の補習学校の開校を認めるようになります。それらの学校では、労働者達に学ぶ機会を与えるのです。このような学校の多くの卒業生が国内、外の大学で勉強することが許されました。中には著名な知識人となったり、地方や中央政府の指導者となったりした者もいます。

アメリカ空軍による北爆の際(1965-1972)、学校は爆弾投下のターゲットとなりました。この激しい戦いを背景に、政府は教育の目標を教育の発展の存続とし、生徒の安全を確保し、学校と実生活、生産と戦いの繋がりを強めます。一般的な学校と職業訓練学校、高等教育機関は、都市部や交通の要所となる地帯、人口の多い地域から疎開させ、教育活動を続けさせました。この時期にあらゆるレベルの学校や教育機関が教育を続け、若い世代を育てることができたのは、最大の偉業でした。若い世代の人々は、愛国心、国民の誇りを持つこと、国の独立を信じること、そして社会主義重視の価値観体制に貢献し、国民としての義務をいとわず全うする準備ができていました。

1954年から1975年の間、南部では政府に支配されていたサイゴンと後に解放される地域でもなお、人民の学びたいという意志に応え、人教育の責務を果たすため、教育活動が行われていました。しかし、これらの二つの地域では教育活動の性格に真逆と言っていいほどの違いがありました。

a)政府支配下のサイゴンでは、教育は徐々にヨーロッパやフランスの影響を受けた制度から、北アメリカ支配の制度に変わっていきました。一般教育は、5年の初等教育、4年の中等教育、能力別クラスを含む3年の高等教育の構成と、いくらか変更されました。高等教育は実践重視ではなく、基礎的な科学、法学、経済、政治に重点を置き、より学術的なものになりました。大学での工学、技術、農学、林学の発展は遅々としたものになります。しかし北アメリカの教育の影響を大きく受けたにもかかわらず、若者達はサイゴン政府がサイゴン都市部を支配する間も抵抗運動の精神を保ち続けました。
b)南ベトナム共和国臨時政府が解放地区に擁立すると、生徒達は一時的に支配されていた地域のものとは大きく異なる、12年制のカリキュラムに従うようになります。そのカリキュラムでは愛国心と抵抗運動の精神を載せた教科書を使用しました。

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一時的分離の歳月(1955-1975) その1 05/27/2017


北部に平和がもたらされると、ベトナム政府は新たに解放された地域の教育制度を引き継ぎ、経済の復興を背景に、北部を築き、ベトナム全土の再統一のために闘い、積極的に新しい教育の改革の準備をしました。

この二度目の教育改革のもとでは、教育の目的は「あらゆる分野で卓越した人間で、良き国民であり、官僚」になる若者を鍛え育てる事とされました。これを達成するために、教育内容は(道徳、理論、物理、芸術に重点を置き)「理論と実践、学校と社会生活を結び付けること」をスローガンとして、より広範囲なものにされています。

方法論的観点から、この改革ではトップダウン式の教育システムを廃止し、カリキュラム外活動を有用とし、人格を形成する重要な方法として徐々に制作活動を取り入れ、教師と生徒の関係がより公平となる教育システムをスタートさせました。

第二の教育改革を通して、新たに解放された地区と解放地区での12年制と9年制の教育制度は、それぞれ統合され10年制(4年の初等教育、3年の前期中等教育、3年の後期中等教育)になりました。これは幾分かソ連の教育制度に似ていました。

ベトナム国民の学びたいという気持ちに応えるために、政府は「一般教育発展のために人材・財源を有効活用すること」を立案しました。5年計画(1961-1965)の終わり頃に は学校のネットワークは広がります。ほとんどの市町村自治区には小学校ができ、前期中等教育学校は2、3の市町村自治区に1つ、特定地区のほとんどには中学校ができました。学問と職業教育の両方を行う学校もつくられました。都市には工業学校、農村地帯には農業学校、山間部には全寮制の学校などです。政府の方策に応え、北部にある多くのコミューンで「学校保護委員会」が設立されました。これらの委員会の仕事は、小学校や中学校を建設するために人材や財源を集めることでした。現地の人々を教師として任命したり、教師への給料の支払い基準を定めたりしたのです。これらの活動は人民基金学校ができるきっかけとなりました。政府は人民基金学校や、公立の学校に勤める教師たちに同様の報酬と方針で働くことを許可し、唯一の違いは、地方自治体は省からの相当の援助をもって、人民基金学校で働く教師達への報酬の予算を立てることとしました。

同時期、既存の医科・薬科大学、教育大学、科学研究所に加え、農業、林業、工芸、経済などの分野の新しい大学も作られました。高等教育制度はあらたな知識人集団を鍛えるために、さらに強化されました。大手企業付属の職業訓練クラスに重点を置く中等専門学校や職業訓練学校がつくられました。これが祖国の保護と統一を掲げる北部地域の発展のための人材確保に役立ったのです。

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独立記念日からインドシナ戦争まで(1945-1954) その2 05/26/2017


インドシナ戦争の間、非武装地帯で学校は続けられました。経験ある人材確保し、民族解放戦争とその後のベトナム発展に貢献するため、1950年、政府は公式に教育改革計画を通過させました。
学校の教育目標の定義は、人民の民主主義政治に忠実で、人民と民族解放戦争に尽くす力のある、未来の国民となる若い世代を教育し、育てることでした。民族解放戦争の状況に応じて、教育改革の主な内容は一般教育の構造を(教育の年数を減らすことで)変えることができました。また、このような変更にも一貫性を持たせるために教育システムの様々な構成要素の関係を調整することもできました。したがって、一般教育は総計9年の三段階で構成されました。ベトナム語の読み書きの授業を除く4年の初等教育、3年の前期中等教育、そして3年の後期中等教育です。授業の内容に関しては外国語、音楽、デッサン、家事など一時中断されたものもあれば、時事、政策、公民、制作など、加えられたものもありました。一般教育カリキュラムが一時的に凝縮されたため、生徒達は大学入学前の9年生の終わりに大学準備コース(最初は2年間でしたが後に1年間に変更されました) を受けなくてはなりませんでした。同時に、反無学主義と専門的な教育システムは、総合的な反無学主義に続き、初等、中等教育プログラムができたことなど)変化し、医学・薬学と、科学(主に文学と数学)の大学は引き続き運営されました。

一時占領された地域では、学校は12年のカリキュラムでした。そのカリキュラムは1945年の初め、日本がフランス領インドシナを侵略した時にベトナム人の学者達が整備したものを基調としていました。そのように一時的に占領された地域の教育制度の特徴は、植民地支配教育の圧力が弱まったことでした。学校ではフランス語に代わりベトナム語が使われ、多くのベトナム的な要素が学校カリキュラム(*)に含まれました。しかし、そのような地域で使われていたカリキュラムはまだフランス教育の影響を色濃く受けていました。

*カリキュラム:カリキュラムは愛国的学者ホアン・スアン・ハンが発展させました。

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独立記念日からインドシナ戦争まで(1945-1954) その1 05/25/2017


我々ベトナム人が政権をとり、ベトナム民主共和国の独立を宣言すると、初大国家主席ホーチミンが初めての会議で、「貧困、無学、そして侵略者との闘い」が当時のベトナム政府と国民の三つの鍵となる重要な課題であると認めました。1945年12月6日、国家主席は1945年度の始まりの際、独立を維持し、国を再建する使命を掲げ、新しい教育制度の誕生を明確にするとともに共に公開状を学生達に発信しました。

「教養のない国は脆弱である」という原理を根幹として、1945年12月8日、ベトナム政府は重要な法律文書、法令第17条-SLを公布し、「ベトナム国民は皆、教養を身につけていなくてはならない。」としました。また「全国に農民や労働者のための夜間教養クラスを設置する」として、「初等教育の義務化の整備の間、ベトナム語での授業を義務とし、国民全て無料で受けられる」という法令第20条-SLを公布しました。そして1945年10月、ホーチミン国家主席は「反文盲」を宣言したのです。

政府方策と、ホーチミン国家主席の号令に応え、一年もたたないうちに2,500万人の人々を文盲から救うために9万6千人の教師を伴う7万5千の教養クラスができました。その結果、民主共和国の設立で反文盲と国民の学ぶ権利の改善は国家の方針となりました。読み書き計算はその人物の教養を表す評価の基準とみなされました。その時から数十年、ベトナムは反無教養と人々の学習条件の改善に尽くしています。だからこそ、ベトナムは世界教育をすべての者に運動(1990年)に素早く反応して、ジョムティエン活動計画を積極的に実践し、ダカールゴールの達成に深く専心しました。

1946年に植民地領主国軍の戦争計画に反対を強調する目的で、ベトナムは二つの法令を公布し、教育方針の法的枠組みを構築しようとしました。それらは、法令第146条-SLと法令第147条-SLで、以下が主な内容です。

a)声明:新しい教育制度は三つの基本原則に基づき構築される。:国民的、科学的かつ一般民衆に信頼され、国家の理想と民主主義の為に尽くすことを目的としていること。

b)新教育制度の構成の一本化、すなわち就学前段階の後、3段階の教育を設ける。
-第一段階、すなわち教育の基礎段階は4年間
-第二段階、2つの副部門に分けられる。(i) 4年間を二つの段階に分けた一般教養と3年間の専門教育、(ii1一年の実験か1年から3年の職業教育(どちらかによる)の2つの段階に分けた特殊教育。
-第三段階、大学(文学、科学、法学科などを含む)と最低3年の専門学校教育。大学に準ずるのは「研究所」とする。
-三つの段階と共に、教育学(教師教育)もまた初等・中等・高等の三つの段階を設ける。

c)教育の基礎レベルのための法的規定を制定すること。7歳から13歳までの全児童は無償で学校に通うことができ、1950年からは基礎教育段階は義務教育とする。大学に関しては、同じく1950年から全科目がベトナム語で行われることとする。長い間フランス語が全大学で使われていたため、この決定は大胆なもので、当時のベトナム知識人の愛国心が表われていました。

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ベトナム封建時代と植民地時代の教育 05/22/2017


ベトナム人にとって学習を奨励すること、そして教師を尊敬するということは、伝統的価値観のひとつです。古くからベトナム社会の知識人の中には、教師の地位は親よりも高く、唯一国王よりも低いという認識がありました。庶民は、自分達は子供に「人としてどうあるべきかを知るために学ぶ」機会を与えるべきであると理解していました。多くの市町村自治体では、裕福な人々は家に教師を招き住まわせ、我が子や他の家庭の子供たちに勉強を教えてもらったのです。王朝時代の役人(政府行政官)の採用では、志願者は優秀な学業成績を収め、試験で高得点を取らなければ指導者になることはできませんでした。そのような政府行政官採用の初試験は1075年に実施されています。

千年近くの間、ベトナム人は漢字を学び、文字を書くことに使っていました。しかし、中国語とは異なったベトナム式の発音をしていました。こういった学習の発展のしかた、そして、国家の独立の意識を保ち、強めることで、中国人にベトナム人が同化されなかったということが明確にわかります。漢字を使うほかにもベトナム人は漢字を作り変え、古代ベトナム文字を発明し、文章を書き、物事を表現しました。このおかげで、価値のある古代ベトナム文字の文学や歴史的作品が多く後世に残されたのです。

19世紀終わり頃から20世紀半ば頃までは、ベトナムを含むインドシナ全体がフランスにより植民地化されていました。ベトナム人は儒教に重点を置いた伝統的な教育を作りだし、維持していました。しかし植民地政府に従う人々を主に訓練することを目的として、フランス‐ベトナム式教育に取って替えられました。フランスのインドシナ侵攻が最盛期の頃は、ベトナムには前期小学校(最初の3年間の初等教育)はわずか2,322校しかなく、平均して3つの村に1つあるだけでした。そしてその児童数は全人口の2パーセントしかいませんでした。また、638の(初等教育の残りの)後期小学校は、全人口の0.4パーセントのみ、私立中等学校(4年間の前期中等教育)は16校で、人口の0.05パーセント生徒数のみでした。後期中等学校は6校で、そのうちの3校が公立でありながら、国の中学生は人口の0.019パーセントしか生徒がいませんでした。フランス領インドシナ全体で大学(法科大学・薬科大学・理科大学)はハノイにあった3校のみで、学生は834人、うち628人がベトナム人でした。フランス‐ベトナム教育制度のもとでは、フランス語が共通言語で、講義は高等教育レベルのフランス語で行われていました。そのような教育システムのため、95パーセントのベトナム人が読み書きすることができませんでした。

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