ベトナムの教育
発展の歴史、挑戦、方策
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独立記念日からインドシナ戦争まで(1945-1954) その2 05/26/2017


インドシナ戦争の間、非武装地帯で学校は続けられました。経験ある人材確保し、民族解放戦争とその後のベトナム発展に貢献するため、1950年、政府は公式に教育改革計画を通過させました。
学校の教育目標の定義は、人民の民主主義政治に忠実で、人民と民族解放戦争に尽くす力のある、未来の国民となる若い世代を教育し、育てることでした。民族解放戦争の状況に応じて、教育改革の主な内容は一般教育の構造を(教育の年数を減らすことで)変えることができました。また、このような変更にも一貫性を持たせるために教育システムの様々な構成要素の関係を調整することもできました。したがって、一般教育は総計9年の三段階で構成されました。ベトナム語の読み書きの授業を除く4年の初等教育、3年の前期中等教育、そして3年の後期中等教育です。授業の内容に関しては外国語、音楽、デッサン、家事など一時中断されたものもあれば、時事、政策、公民、制作など、加えられたものもありました。一般教育カリキュラムが一時的に凝縮されたため、生徒達は大学入学前の9年生の終わりに大学準備コース(最初は2年間でしたが後に1年間に変更されました) を受けなくてはなりませんでした。同時に、反無学主義と専門的な教育システムは、総合的な反無学主義に続き、初等、中等教育プログラムができたことなど)変化し、医学・薬学と、科学(主に文学と数学)の大学は引き続き運営されました。

一時占領された地域では、学校は12年のカリキュラムでした。そのカリキュラムは1945年の初め、日本がフランス領インドシナを侵略した時にベトナム人の学者達が整備したものを基調としていました。そのように一時的に占領された地域の教育制度の特徴は、植民地支配教育の圧力が弱まったことでした。学校ではフランス語に代わりベトナム語が使われ、多くのベトナム的な要素が学校カリキュラム(*)に含まれました。しかし、そのような地域で使われていたカリキュラムはまだフランス教育の影響を色濃く受けていました。

*カリキュラム:カリキュラムは愛国的学者ホアン・スアン・ハンが発展させました。

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独立記念日からインドシナ戦争まで(1945-1954) その1 05/25/2017


我々ベトナム人が政権をとり、ベトナム民主共和国の独立を宣言すると、初大国家主席ホーチミンが初めての会議で、「貧困、無学、そして侵略者との闘い」が当時のベトナム政府と国民の三つの鍵となる重要な課題であると認めました。1945年12月6日、国家主席は1945年度の始まりの際、独立を維持し、国を再建する使命を掲げ、新しい教育制度の誕生を明確にするとともに共に公開状を学生達に発信しました。

「教養のない国は脆弱である」という原理を根幹として、1945年12月8日、ベトナム政府は重要な法律文書、法令第17条-SLを公布し、「ベトナム国民は皆、教養を身につけていなくてはならない。」としました。また「全国に農民や労働者のための夜間教養クラスを設置する」として、「初等教育の義務化の整備の間、ベトナム語での授業を義務とし、国民全て無料で受けられる」という法令第20条-SLを公布しました。そして1945年10月、ホーチミン国家主席は「反文盲」を宣言したのです。

政府方策と、ホーチミン国家主席の号令に応え、一年もたたないうちに2,500万人の人々を文盲から救うために9万6千人の教師を伴う7万5千の教養クラスができました。その結果、民主共和国の設立で反文盲と国民の学ぶ権利の改善は国家の方針となりました。読み書き計算はその人物の教養を表す評価の基準とみなされました。その時から数十年、ベトナムは反無教養と人々の学習条件の改善に尽くしています。だからこそ、ベトナムは世界教育をすべての者に運動(1990年)に素早く反応して、ジョムティエン活動計画を積極的に実践し、ダカールゴールの達成に深く専心しました。

1946年に植民地領主国軍の戦争計画に反対を強調する目的で、ベトナムは二つの法令を公布し、教育方針の法的枠組みを構築しようとしました。それらは、法令第146条-SLと法令第147条-SLで、以下が主な内容です。

a)声明:新しい教育制度は三つの基本原則に基づき構築される。:国民的、科学的かつ一般民衆に信頼され、国家の理想と民主主義の為に尽くすことを目的としていること。

b)新教育制度の構成の一本化、すなわち就学前段階の後、3段階の教育を設ける。
-第一段階、すなわち教育の基礎段階は4年間
-第二段階、2つの副部門に分けられる。(i) 4年間を二つの段階に分けた一般教養と3年間の専門教育、(ii1一年の実験か1年から3年の職業教育(どちらかによる)の2つの段階に分けた特殊教育。
-第三段階、大学(文学、科学、法学科などを含む)と最低3年の専門学校教育。大学に準ずるのは「研究所」とする。
-三つの段階と共に、教育学(教師教育)もまた初等・中等・高等の三つの段階を設ける。

c)教育の基礎レベルのための法的規定を制定すること。7歳から13歳までの全児童は無償で学校に通うことができ、1950年からは基礎教育段階は義務教育とする。大学に関しては、同じく1950年から全科目がベトナム語で行われることとする。長い間フランス語が全大学で使われていたため、この決定は大胆なもので、当時のベトナム知識人の愛国心が表われていました。

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ベトナム封建時代と植民地時代の教育 05/22/2017


ベトナム人にとって学習を奨励すること、そして教師を尊敬するということは、伝統的価値観のひとつです。古くからベトナム社会の知識人の中には、教師の地位は親よりも高く、唯一国王よりも低いという認識がありました。庶民は、自分達は子供に「人としてどうあるべきかを知るために学ぶ」機会を与えるべきであると理解していました。多くの市町村自治体では、裕福な人々は家に教師を招き住まわせ、我が子や他の家庭の子供たちに勉強を教えてもらったのです。王朝時代の役人(政府行政官)の採用では、志願者は優秀な学業成績を収め、試験で高得点を取らなければ指導者になることはできませんでした。そのような政府行政官採用の初試験は1075年に実施されています。

千年近くの間、ベトナム人は漢字を学び、文字を書くことに使っていました。しかし、中国語とは異なったベトナム式の発音をしていました。こういった学習の発展のしかた、そして、国家の独立の意識を保ち、強めることで、中国人にベトナム人が同化されなかったということが明確にわかります。漢字を使うほかにもベトナム人は漢字を作り変え、古代ベトナム文字を発明し、文章を書き、物事を表現しました。このおかげで、価値のある古代ベトナム文字の文学や歴史的作品が多く後世に残されたのです。

19世紀終わり頃から20世紀半ば頃までは、ベトナムを含むインドシナ全体がフランスにより植民地化されていました。ベトナム人は儒教に重点を置いた伝統的な教育を作りだし、維持していました。しかし植民地政府に従う人々を主に訓練することを目的として、フランス‐ベトナム式教育に取って替えられました。フランスのインドシナ侵攻が最盛期の頃は、ベトナムには前期小学校(最初の3年間の初等教育)はわずか2,322校しかなく、平均して3つの村に1つあるだけでした。そしてその児童数は全人口の2パーセントしかいませんでした。また、638の(初等教育の残りの)後期小学校は、全人口の0.4パーセントのみ、私立中等学校(4年間の前期中等教育)は16校で、人口の0.05パーセント生徒数のみでした。後期中等学校は6校で、そのうちの3校が公立でありながら、国の中学生は人口の0.019パーセントしか生徒がいませんでした。フランス領インドシナ全体で大学(法科大学・薬科大学・理科大学)はハノイにあった3校のみで、学生は834人、うち628人がベトナム人でした。フランス‐ベトナム教育制度のもとでは、フランス語が共通言語で、講義は高等教育レベルのフランス語で行われていました。そのような教育システムのため、95パーセントのベトナム人が読み書きすることができませんでした。

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