一時的分離の歳月(1955-1975) その2

一般教育の改革と共に、政府は「無学を無くすための中央運営委員会」を創設しました。委員会は国民の教育を国の計画に不可欠なものとして、文盲をなくすための3年計画を打ち出しました(1956-1958)。その結果、216万1,362人の人々が文盲から脱することができました。またデルタ地帯のほとんどの住民が読み書きできるようになり、12歳から50歳の人々の識字率は93.4パーセントにまで上昇したのです。しかし、このように反文盲運動が成し得たことも長くは続きませんでした。「やるのは一度きり」という認識が常識であったなど、様々な理由の為です。

反文盲運動が成し遂げたものに基づき、国民の教育制度は働く世代の大人の教育レベルを改善することに重点を置くようになりました。これは一般教育と並んで、「補習」教育制度と呼ばれました。補習教育の発展とともに、政府は工業、農業教育の補習学校の開校を認めるようになります。それらの学校では、労働者達に学ぶ機会を与えるのです。このような学校の多くの卒業生が国内、外の大学で勉強することが許されました。中には著名な知識人となったり、地方や中央政府の指導者となったりした者もいます。

アメリカ空軍による北爆の際(1965-1972)、学校は爆弾投下のターゲットとなりました。この激しい戦いを背景に、政府は教育の目標を教育の発展の存続とし、生徒の安全を確保し、学校と実生活、生産と戦いの繋がりを強めます。一般的な学校と職業訓練学校、高等教育機関は、都市部や交通の要所となる地帯、人口の多い地域から疎開させ、教育活動を続けさせました。この時期にあらゆるレベルの学校や教育機関が教育を続け、若い世代を育てることができたのは、最大の偉業でした。若い世代の人々は、愛国心、国民の誇りを持つこと、国の独立を信じること、そして社会主義重視の価値観体制に貢献し、国民としての義務をいとわず全うする準備ができていました。

1954年から1975年の間、南部では政府に支配されていたサイゴンと後に解放される地域でもなお、人民の学びたいという意志に応え、人教育の責務を果たすため、教育活動が行われていました。しかし、これらの二つの地域では教育活動の性格に真逆と言っていいほどの違いがありました。

a)政府支配下のサイゴンでは、教育は徐々にヨーロッパやフランスの影響を受けた制度から、北アメリカ支配の制度に変わっていきました。一般教育は、5年の初等教育、4年の中等教育、能力別クラスを含む3年の高等教育の構成と、いくらか変更されました。高等教育は実践重視ではなく、基礎的な科学、法学、経済、政治に重点を置き、より学術的なものになりました。大学での工学、技術、農学、林学の発展は遅々としたものになります。しかし北アメリカの教育の影響を大きく受けたにもかかわらず、若者達はサイゴン政府がサイゴン都市部を支配する間も抵抗運動の精神を保ち続けました。
b)南ベトナム共和国臨時政府が解放地区に擁立すると、生徒達は一時的に支配されていた地域のものとは大きく異なる、12年制のカリキュラムに従うようになります。そのカリキュラムでは愛国心と抵抗運動の精神を載せた教科書を使用しました。