一時的分離の歳月(1955-1975) その1

北部に平和がもたらされると、ベトナム政府は新たに解放された地域の教育制度を引き継ぎ、経済の復興を背景に、北部を築き、ベトナム全土の再統一のために闘い、積極的に新しい教育の改革の準備をしました。

この二度目の教育改革のもとでは、教育の目的は「あらゆる分野で卓越した人間で、良き国民であり、官僚」になる若者を鍛え育てる事とされました。これを達成するために、教育内容は(道徳、理論、物理、芸術に重点を置き)「理論と実践、学校と社会生活を結び付けること」をスローガンとして、より広範囲なものにされています。

方法論的観点から、この改革ではトップダウン式の教育システムを廃止し、カリキュラム外活動を有用とし、人格を形成する重要な方法として徐々に制作活動を取り入れ、教師と生徒の関係がより公平となる教育システムをスタートさせました。

第二の教育改革を通して、新たに解放された地区と解放地区での12年制と9年制の教育制度は、それぞれ統合され10年制(4年の初等教育、3年の前期中等教育、3年の後期中等教育)になりました。これは幾分かソ連の教育制度に似ていました。

ベトナム国民の学びたいという気持ちに応えるために、政府は「一般教育発展のために人材・財源を有効活用すること」を立案しました。5年計画(1961-1965)の終わり頃に は学校のネットワークは広がります。ほとんどの市町村自治区には小学校ができ、前期中等教育学校は2、3の市町村自治区に1つ、特定地区のほとんどには中学校ができました。学問と職業教育の両方を行う学校もつくられました。都市には工業学校、農村地帯には農業学校、山間部には全寮制の学校などです。政府の方策に応え、北部にある多くのコミューンで「学校保護委員会」が設立されました。これらの委員会の仕事は、小学校や中学校を建設するために人材や財源を集めることでした。現地の人々を教師として任命したり、教師への給料の支払い基準を定めたりしたのです。これらの活動は人民基金学校ができるきっかけとなりました。政府は人民基金学校や、公立の学校に勤める教師たちに同様の報酬と方針で働くことを許可し、唯一の違いは、地方自治体は省からの相当の援助をもって、人民基金学校で働く教師達への報酬の予算を立てることとしました。

同時期、既存の医科・薬科大学、教育大学、科学研究所に加え、農業、林業、工芸、経済などの分野の新しい大学も作られました。高等教育制度はあらたな知識人集団を鍛えるために、さらに強化されました。大手企業付属の職業訓練クラスに重点を置く中等専門学校や職業訓練学校がつくられました。これが祖国の保護と統一を掲げる北部地域の発展のための人材確保に役立ったのです。